この先に書いてあること

  • 2030年に、人間の仕事はどうなっているのか。
  • 銀行と、20万円と、最後のボタン。
  • 働かなくてよくなった先に、待っているもの。

僕は2030年という年をかなり意識している。

もちろん2030年1月1日に突然世界が変わるという意味ではない。ただ、現在のAIの進歩を見ていると、2030年前後には「人間が働く」ということの意味そのものが、大きく変わり始めているのではないかと真剣に考えている。

そしてこれは単なる未来予測ではない。

僕自身が毎日の仕事でAIを使い、できる仕事を一つずつAIへ渡し、人間が介在しなくても仕事が進む仕組みを実際に作っているからこそ、強く感じるようになったことでもある。

ホワイトカラーだけが消えるわけではない

AIによって最初に影響を受けるのはホワイトカラーで、建設、物流、製造などのブルーカラーの仕事は比較的長く残る、そんな話をよく聞く。

しかし僕はそうは思っていない。

例えば家の塗装なら、建物をスキャンして形状を認識し、洗浄、下地処理、塗装、仕上がり確認までロボットが行うことは十分考えられる。最初は足場を組むところに人間が必要かもしれないが、それもいずれ自動化されるだろう。

住宅建設も同じで、工場で規格化された部材を作り、現場ではロボットが組み立てる。建物そのものを「人間が建てやすい設計」から「ロボットが建てやすい設計」へ変えてしまえばいい。

物流についても、自動運転だけを考えていては不十分だ。倉庫での商品管理、ピッキング、積み込み、自動運転、荷下ろし、配送まで一つにつながれば、物流全体から人間を大幅に減らすことができる。

AIがホワイトカラーを代替し、ロボティクスがブルーカラーを代替する。

時間差はあっても、最終的には両方が同じ方向へ向かうと思っている。

医師でさえ例外ではないと思う

僕は医師もAIの影響を強く受ける職業だと思っている。

検査結果、画像、症状、既往歴、過去の膨大な症例、最新の医学論文などを同時に処理して判断する能力で、人間がAIと競争し続けるのは難しい。

手術についても、名医の動きを学習するだけではなく、大量の手術データと術後成績を解析することで、人間が知らなかった、より良い手術方法をAI自身が見つける可能性もある。

もちろん医療には法律、責任、患者の心理という問題があるので、「AIの方が優秀になること」と「医師という職業がなくなること」は同じではない。

しかし、この違いこそが、後で述べる「AIにできるのに人間が残る仕事」という問題につながってくる。

ごく一部の人間しか働かない社会

僕は将来、全体の10%程度の人間がAIやロボットを使って巨大な生産活動を動かし、大部分の人間が現在の意味での仕事を持たなくなる可能性があると考えている。もしかすると10%さえ多いかもしれない。

一人の人間が100のAIエージェントを動かし、その100のAIがさらに多数の仕事を処理し、やがてAIがAIを管理するようになれば、一人の人間が動かせる仕事量は現在とは比較にならない。

そうなれば問題になるのが所得だ。

仕事をする人が少数になれば、大多数の人間には給与所得がなくなる。

しかしAIとロボットが仕事をするようになっても、社会の生産能力がなくなるわけではない。むしろ上がるだろう。

食料は作れる。家も建てられる。商品も生産できる。物流も動く。サービスも提供できる。

社会には十分な商品やサービスが存在するのに、それを買う人間に所得がないという奇妙な状況が生まれる。

だから僕は、何らかのベーシックインカムに近い制度が必要になると思っている。

AIやロボットを所有する企業や資本に富が集中するのであれば、そこから税などによって富を社会へ戻し、大多数の人間の最低限の生活を保証する。そうしなければ経済そのものが回らなくなる。

人類が大量に手に入れる「時間」

最低限の生活が保証される一方で、人類が今とは比較にならないほど大量に手に入れるものがある。

それが時間だ。

毎朝会社へ行く必要もなく、通勤もなく、8時間働く必要もない。仕事のための勉強をする必要もなくなれば、睡眠時間を除いた一日の大部分が自由時間になる。

すると人類は、これまで経験したことのない「毎日、何をして過ごすのか」という問題に直面する。

僕はそこで、エンターテインメント産業が非常に大きくなると思っている。映画、音楽、ゲーム、スポーツ、旅行、ライブ、配信、VRなどに大量の時間が使われる。

ただし現在のエンターテインメントとは少し違うだろう。

AIによって自分専用の映画、自分専用の音楽、自分専用のゲームが作られ、ゲームの登場人物全員がAIになり、それぞれに人格と記憶を持つ。昨日話した相手が今日もその会話を覚え、自分に合わせて世界そのものが生成され続ける。

それはもはやゲームではなく、「もう一つの人生」に近いものになるかもしれない。

エンターテインメントは仕事の疲れを癒やすものから、「人生の時間をどう使うのか」という社会インフラに近い存在へ変わっていく。

人間は本当に暇に耐えられるのか

ここには大きな問題もある。

人間は長い間、「働かなくても生活できれば幸せなのに」と考えてきた。しかし仕事は単にお金を稼ぐためだけのものではない。

朝起きる理由であり、人と会う理由であり、自分が誰かに必要とされていると感じる理由でもある。

現在は「働きたくなくても、生きるために働かなければならない」という社会だが、将来は「働きたいと思っても、社会が自分の労働を必要としていない」という社会になるかもしれない。

多くの人間は、その大量の暇に簡単には耐えられないと思う。しかし耐えるしかない。

僕はこれも、シンギュラリティの先にある一つの未来だと思っている。

AIにできても、人間にやってもらいたい仕事

では、人間の仕事は完全になくなるのか。

ここを考えていると、AIに「できない仕事」だけが残るわけではないことに気づく。AIにできても、「人間にやってもらいたい仕事」が残る。

僕は実際の商売を通じて、この境界を強く感じている。

比較的金額の小さい商品は、人間を介在させなくても取引が成立しやすい。商品を見て、説明を読み、価格と条件に納得して購入し、商品が届けば取引は終了する。

ところが金額が大きくなるほど人間の心理は変わる。

「本当に大丈夫なのか」「一度担当者と話したい」「自分の場合にも問題ないのか」「何かあったとき誰が責任を取るのか」

という感情が強くなる。

僕自身の商売での肌感覚では、この変化がはっきり現れ始める一つの境界が20万円程度だと感じている。

もちろん商品によって違うし、20万円という数字そのものが重要なのではない。取引金額、複雑性、失敗した場合の損失、心理的不安が大きくなるほど、人間は「人間」を求めるということだ。

銀行はすでにその未来になっている

銀行を見ると、この構造は非常に分かりやすい。

一般的な振込、残高確認、入出金、各種手続きはATM、ネットバンキング、アプリへ移り、人間と話す必要はほとんどなくなった。

ところが富裕層になると正反対で、資産運用、相続、事業承継などについて担当者が積極的に接触してくる。

一般顧客には「システムを使ってください」となり、富裕層には「人間が担当します」となる。

僕はこの構造が銀行以外の産業にも広がっていくのではないかと思っている。

AIが圧倒的な知識を持つようになれば、その富裕層担当者でさえ、裏ではAIを使うことになるだろう。AIが分析し、資料を作り、リスクを調べ、提案を考える。

しかし最後は人間が顧客と向き合う。

そこで人間が提供しているものは知識だけではない。安心、信頼、責任、そして「自分のことを一人の人間が担当している」という感覚だ。

AIが高度になるほど、一部の人間の価値は「能力」ではなく、「人間であること」そのものへ移っていくのかもしれない。

僕自身も、人間を仕事から消すことを試している

僕はAIについて考えるだけではなく、実際の仕事でも、できる限り人間が介在しない仕組みを作ろうとしている。

商品が売れ、注文を処理し、必要な商品を判断し、適切な仕入先へ発注し、消費者へ商品を届け、入金を確認し、経理へつなげる。

かなりのところまで、人間が触らなくても動くようになってきた。

しかし実際にそこまで進めてみると、次々に別の壁が出てくる。

代表的なのが支払いだ。

どこへ、いくら支払うべきなのかはAIやシステムが判断でき、振込を実行する直前まで進めることもできる。しかし最後にはパスワード、二段階認証、本人確認、銀行の承認など、人間が要求される。

ここまで自動化できているのに、最後のボタンだけ人間が押さなければならない。

何度も「なぜここだけ人間なのか」と考えたが、これは非常に象徴的な問題なのかもしれない。

AIに能力がないから止まっているのではない。社会の仕組みが「ここから先は人間でなければならない」と要求している。

同じ問題は法務、契約、税務、本人確認などにも存在する。

つまりAI社会への移行速度を決めるのはAIの知能だけではなく、社会がAIに「どこまで権限を与えるのか」という問題でもある。

もしかすると完全自動化の最後に残る壁は、AIの能力ではなく、人間社会が作った権限と責任の仕組みなのかもしれない。

さらに厄介なのが「真実」の問題

ネット上のリサーチをAIにさせると、驚くほど完成度の高いものが出てくる。しかし最近、僕はそこにも危険を感じている。

AIが作った記事を別のAIが読み、それを元に新しい記事を書く。その記事を検索エンジンが拾い、さらに別のAIが情報源として利用する。

そうなれば、元は一つの間違った情報だったものが、ネット上では「多くの情報源が同じことを言っている」ように見えてしまう可能性がある。

だからこれから価値を持つのは、単に大量の情報を集める能力ではない。

その情報はどこから来たのか。一次情報は何なのか。複数の情報源は本当に独立しているのか。いつの情報なのか。誰が確認したのか。

AIが賢くなればなるほど、「情報量」より「情報の信頼性」の方が重要になるのではないかと思う。

だから僕は2030年を意識している

こうしたことを考えていると、僕はAIについて勉強しているというより、「人間が必要になる場所はどこなのか」を探しているような気がする。

AIに仕事を渡し、そこで人間が必要になれば、なぜ人間が必要なのかを考え、その人間を外せないか考える。すると、また次の壁が現れる。

権限、責任、法務、セキュリティ、顧客心理、現実世界で発生する例外、情報の信頼性。

それを一つずつ越えていく。

僕は2030年に何が起こるのかを正確に予言したいわけではない。ただ、50年後、100年後の話だとも思っていない。

僕自身の仕事では、未来の話だと思われていることの一部が、すでに現実になり始めている。

だからこそ2030年を一つの目安として、それまでにAIで何ができるのか、どこまで人間を仕事から外せるのかを毎日のように試している。

そして最後に、一番怖い問題が自分自身に返ってくる

ところが、ここまでAIを使うようになって、逆の恐怖を感じるようになった。

僕は本当に「AIを使いこなしている」のだろうか。

それとも「AIがなければ何もできない人間」へ近づいているのだろうか。

前回のコラムでも書いたが、普段使っているAIが3日間だけ使えなくなり、しかも3日後には必ず復旧すると分かっているとする。

僕なら、おそらくその3日間は休む。

AIなら数分、数十分で終わる仕事を、自分で何時間もかけてやろうとは思わない。これは合理的な判断とも言えるが、別の見方をすれば、それほどAIに依存しているということでもある。

では3日ではなく、ある日突然すべてのAIが使えなくなったらどうなるのか。

ChatGPTもClaudeもAIエージェントもなく、コードを書いてくれるAIも、調査してくれるAIも、判断を補助してくれるAIもない。

そのとき、自分には何が残っているのだろう。そう考えると、不安しか残らない。

しかし、だからといってAIを使わないという選択肢にも戻れない。

AIへの依存が怖いから自分ですべてやるというのでは、AIを使う人間との競争に勝てない。企業ならなおさらで、何人もの人間で行っている仕事を、一人の人間とAIで処理する会社が現れれば、そもそものコスト構造が違ってくる。

AIを使わないことが安全策になるのではなく、AIを使わないこと自体が大きなリスクになっていく。

ここに大きな矛盾がある。

AIを使えば使うほど人間は強くなる。しかし同時に、AIがなくなったときには弱くなる。

そしてこれは僕一人の問題ではないと思う。

社会全体が同じ方向へ進めば、やがて人類そのものがAIの存在を前提として動くようになる。今の社会が電気なしでは成立せず、インターネットなしでも正常には動かないのと同じように、「AIが止まれば社会が止まる」という時代が来るのかもしれない。

本当のシンギュラリティとは何なのだろう

一般的には、AIが人間の知能を超えることをシンギュラリティとして語ることが多い。しかし僕は最近、少し違うことを考えている。

本当に社会を変える瞬間は、AIが人間より賢くなった瞬間ではなく、人間が「働く必要」を失った瞬間なのではないか。

そして、そのさらに先にはもう一つの境界がある。

人間がAIなしでは働けなくなった瞬間だ。

これは前回のコラムで書いた、「AIを止めた後の社会を、人間だけでは再起動できなくなる地点」と同じ線の上にあると思っている。

働かなくても生きていける。しかし、働こうと思ってもAIなしでは何もできない。

そんな社会が本当に幸福なのか、僕にはまだ分からない。

それでも僕はAIを使い続けると思う。

明日もAIを使い、新しいAIが出れば試し、AIにできることを探し、自分がやっている仕事を一つずつAIへ渡していく。

できることなら、会社から自分自身を限りなく消していきたい。

2030年までの時間は、それほど長くないと思っているからだ。

ただ、その過程で一つだけ忘れてはいけないと思っている。

AIを使うことで、自分は何を手に入れているのか。

そして、AIを使うことで、自分は何を失っているのか。

AIを使いこなすことと、AIに依存することの境界は、僕が思っていたよりずっと曖昧なのかもしれない。

そしてもしかすると、それこそが2030年に向かう僕たちが考えなければならない、最も大きな問題なのではないだろうか。