この先に書いてあること

  • 小学2年生の僕が、ワープロを見て思ったこと。
  • 北京語、台湾、そして「チャンネルを変える」感覚。
  • パンドラの箱とバベルの塔、ガンダムの話も出てきます。

ギリシャ神話に「パンドラの箱」という有名な話がある。

ゼウスから人類最初の女性パンドラが地上へ送られる際、「絶対に開けてはいけない」と持たされたものを、好奇心から開けてしまう。

すると、疫病、悲痛、犯罪など、ありとあらゆる災いが世界へ飛び出した。

慌てて閉じた時、最後に中に残っていたのが「希望」だったという話だ。

ちなみに「パンドラの箱」と呼ばれているが、元々は箱ではない。ギリシャ語で「ピトス」と呼ばれる大きな甕だったものが、後世ラテン語に翻訳された際に「箱」とされ、それがそのまま定着してしまったらしい。

2000年以上語り継がれる神話の道具そのものが、翻訳によって変わってしまった。今回の話を考えると、なかなか面白い豆知識だと思う(笑)。

ただし、「人類がかつて一つの言語を話していて、それがバラバラになった」という有名な話は、パンドラではなく旧約聖書の「バベルの塔」の方だ。

人類は同じ言葉を話していた。

ところが言葉を分けられ、意思疎通ができなくなってしまった。

パンドラには災厄をばら撒かれ、バベルでは言葉までバラバラにされる。

人類、踏んだり蹴ったりである(笑)。

そしてその後、人類は何千年もの間、「言葉が違う」という問題に苦労することになる。

そんな話を前置きにして、今日はAIと言語学習について考えてみたい。

僕が小学校2年生くらいの時だったと思う。

ニュースで「ワードプロセッサー」、俗にいう「ワープロ」というものが開発されたと報じていた。

それを見た子供の僕は、かなり真剣にこう思った。

「ああ、これで面倒くさい漢字を覚えなくてもよくなるんだ」

ただし、読めなければ変換された漢字が正しいのか分からない。

だから、

「漢字は書けなくてもいい。でも読めなければいけない。だったら漢字の勉強は読むことに集中しよう」

そう考えた。

誰にも言わなかったけれど、本当に漢字の書き取り練習をほとんどしなくなった。

自然に覚えてしまうもの以外、必死になって書き方を覚える必要はないと、本気で考えていたからだ。

今考えると、小学2年生の僕が考えていたのは、

「機械に任せられる能力を、人間が今までと同じように訓練し続ける必要があるのか?」

ということだったのだと思う。

結果から言うと、小学生の僕の予想は当たった。

今、自分の手で字を書く機会は、ほとんどない。一番書くのは、海外へ行ったときの入国カードと、帰国時の税関の申告書くらいだ。

字を書くという行為そのものが、生活からほとんど消えている。

そして中学生になった。

英語の授業が始まった。

僕は英語が大嫌いだった。

なぜ英語を勉強しなければならないのか理解できなかったし、当時の僕には、それほど重要なものとも思えなかった。

せっかく面倒な漢字の書き取りから解放されたと思ったら、今度は英単語を書いて覚えろという。

単語を覚える。

スペルを覚える。

文法を覚える。

なんでこんなことをやらなきゃいけないんだ。

そんな感覚だから、当然英語なんて上手くなるはずもない。

そんなまま学生時代を過ごした。

僕が本格的に外国語に興味を持ったのは、大学に入ってすぐのことだった。

英語ができないことには、やはりコンプレックスがあった。

この先、人生を生きていく中で、このままで本当にいいんだろうか。

そう考えると不安も残った。

そこで僕は考えた。

「だったら、世界で一番たくさんの人が使っている言語を勉強すればいいんじゃないか?」

普通なら、そこで英語を選ぶ。

ところが当時の僕の頭には、

「世界中の人間の4人に1人くらい中国人なんじゃないか?」

という、かなり乱暴な発想があった(笑)。

だったら中国語だ。

そして夜、北京語学校の門を叩いた。

これが僕には突き刺さった。

語学の勉強がこんなに面白いとは思わなかった。

学校から「勉強しなさい」と言われた英語とは、まったく違った。

自分で選んだ言語を、自分が話したいから勉強する。

これがとにかく楽しかった。

もっと本気で北京語を勉強したい。

そうだ、北京に留学しよう。

そう思った僕は、家庭教師と塾講師をやりながら守銭奴と化し(笑)、ひたすら留学費用を貯めた。

ところが、ここで大事件が起きる。

天安門事件である。

北京へ留学するという計画が難しくなった。

そこで方向転換した。

台湾へ行こう。

僕は日本の大学をあっさり辞めて、台湾へ舵を切った。

ところが台湾に着いて、いきなり現実を突きつけられる。

日本で一年間勉強した北京語が、まったく通用しない。

何を言っているのか分からない。

分からないから、何を返したらいいのかも分からない。

本当に悔しかった。

なけなしの金を貯め、日本の大学まで辞めて台湾まで来たのに、何もできない。

自分に腹が立って、腹が立って仕方なかった。

そこから半年間、受験勉強より激しい勉強をした。

日本人との接触をほぼ断ち、台湾人とだけ話す。

毎日ひたすら北京語の中で生活する。

それでもしばらくは悶々としていた。

ところが半年ほど経った頃、不思議なことが起きた。

「耳から北京語が入ってくる」ようになった。

日本語に翻訳して理解するのではない。

北京語が北京語のまま入ってくる。

入ってくるようになると、出すのも容易になる。

ここまで来るのに半年かかった。

その後、台湾の大学へ通い始めると、また壁にぶち当たった。

授業は北京語なのに、テストが英語だったりするのだ。

英語から逃げるように北京語を選んだはずなのに、

「なんで台湾まで来て、また英語なんだよ……」

と思った(笑)。

ところが、ここでまた不思議なことに気づいた。

一つの外国語をある程度身につけると、二つ目、三つ目の外国語を覚える感覚がまったく違う。

僕の場合は、

「テレビのチャンネルを変える」

ような感覚だった。

台湾留学中には北京語を学び、英語に連れ戻され(笑)、台湾語にも興味を持って勉強した。

一度チャンネルを切り替える感覚が分かると、少なくとも日常会話レベルなら、新しい言語でも僕の場合は3か月もあればかなり使えるようになった。

日本へ帰ってから始めたイタリア語は難しくて挫折したけれど(笑)、その後勉強したタイ語はかなり使えるようになった。

だから僕は、語学を勉強することの面白さも知っている。

外国語を話せることで世界が広がることも知っている。

それでも今、自分の息子や娘には、

「もう語学の勉強に大量の時間を使うのは、ナンセンスなんじゃないか」

という話をしている。

妻も僕も複数の言語を使う。娘が生まれた頃から、家の中では複数の言語が飛び交っていた。

そんな家庭なのに、僕は子供たちが語学学習に大量の時間を使うことに、今は疑問を持っている。

なぜか。

語学を実用レベルまで持っていくのは、とにかく大変だからだ。

僕は語学学習には、大きく三つの能力が絡んでいると思っている。

まず「記憶」。

単語、意味、文法、言い回し。

大量に覚えなければならない。

しかし、覚えただけでは話せない。

次に「聞き取る」。

耳から入ってきた音が、自分の記憶の中にあるどの単語なのかを瞬時に判断しなければならない。

そして「喋る」。

自分の耳で聞いた音や、相手の口の動きを真似しながら、自分の口から同じような音を出す。

頭で分かっているだけでは駄目なのだ。

記憶し、聞き分け、発音し、それを考えなくても出てくるところまで繰り返す。

この大変な作業を身につけるために、人間はいったいどれほどの時間を使えばいいのだろう。

そう考えると、

「その時間で、他にやることがあるんじゃないか?」

と思ってしまう。

そして、ここからAIの話になる。

言語をリアルタイムで通訳することは、AIが進んでいく大きな方向の一つだと思う。

文章を書いて別の国の言葉へ変換することなら、かなり以前からできた。

しかし僕が期待しているのは、その先だ。

目の前の外国人が話す。

それがほとんど遅延なく、自分のイヤホンから日本語として聞こえてくる。

僕は日本語で返事をする。

すると相手には、その人の母国語として聞こえる。

翻訳の精度がどこまで上がるのかという問題は、もちろん残る。

今のAIが完璧だと言うつもりもない。

でも、そんな世界はもうSFの中だけの話ではないと思っている。

たとえば、日本語を母語とする僕と、アラビア語を母語とする人が会ったとする。

二人とも英語が話せる。

じゃあ英語で話せばいい。

おそらく会話は成立する。

でも、本当に100%意思疎通できているのだろうか?

僕はTOEICなんて受けていないし、初対面の挨拶で、

「こんにちは。僕のTOEICは○点です。あなたは?」

なんて点数交換をするわけでもない(笑)。

相手の英語力がどの程度なのか分からない。

相手も僕の英語力を知らない。

お互い母語ではない英語を使いながら、「たぶん通じているだろう」という前提で会話する。

日常会話ならいい。

でも商談、契約、金額、納期、責任範囲となったらどうだろう。

「だいたい通じた」では危ない。

それなら僕は、一番正確に考えることができる日本語で話せばいい。

相手は、一番正確に考えることができるアラビア語で話せばいい。

その間だけAIに任せる。

もしそれで完璧に意思疎通できるなら、僕にはそちらの方が自然に思える。

だから僕の本音を言えば、

意思疎通のためだけの語学学習は、将来的にはAIに任せてしまえばいいと思っている。

もちろん、語学そのものが好きなら話は別だ。

中国文化が好きだから中国語を学ぶ。

イタリアが好きだからイタリア語を学ぶ。

原文で文学を読みたい。

外国人の友人や恋人と、その人の言葉で直接話したい。

それは素晴らしい。

僕自身、語学を勉強したことで得たものは山ほどある。

台湾で、北京語が北京語のまま耳に入ってきた、あの感覚も忘れられない。

だから「外国語を学ぶことには価値がない」と言っているのではない。

僕が疑問に思っているのは、

実用のためだけに、一つの外国語を身につけるために膨大な時間を使う教育を、AI時代にもそのまま続ける必要があるのか?

ということだ。

僕は、勉強には大きく二種類あると思っている。

一つは「記憶する勉強」。

覚えていれば正解できる。

もう一つは「考える勉強」。

持っている材料を組み合わせて、自分で答えを導き出す。

僕は昔から後者の方が好きだ。

なぜなら、後者には必ずしも一つの正解がないからだ。

もっと面白い考え方があるかもしれない。

別の方向から見たら、まったく違う答えになるかもしれない。

実は今、こうやってAIと延々話しながら、この文章の元になる考えを整理していること自体が後者だと思っている。

もちろん困ったことに、AIは記憶も得意なら、考えることも得意になってきた(笑)。

それでも、人間が何に疑問を持つのか。

何を問題だと思うのか。

何をAIに問いかけるのか。

AIから返ってきた答えに「いや、それは違う」と感じられるのか。

そして最後に、自分はどう考えるのか。

ここにはまだ、とても大きな意味があると思っている。

だから僕なら、子供たちが外国語を一つ身につけるために大量の時間を使うくらいなら、その時間を使ってAIを徹底的に使いこなせるようになってほしいと思う。

AIについての用語を暗記しろという意味ではない。

AIに自分の考えを正確に伝える。

返ってきた答えを疑う。

別の角度から質問する。

必要な情報を集める。

自分では思いつかなかった可能性を引き出す。

そして最後は自分で判断する。

外国語を一つ増やすことより、

外国語という制約そのものを消してくれる道具を使いこなす。

僕なら、そちらに時間を使う。

そして最後に。

僕の大好きなアニメに「機動戦士ガンダム」がある。

子供の頃から見ていて、不思議に思っていたことがある。

地球の人間も、宇宙に住んでいる人間も、人種も出身地も違うのに、画面の中ではみんな流暢に日本語を喋っている(笑)。

子供の僕は思った。

「こんな世界になればいいのに」

世界中どこへ行っても、誰とでも普通に話ができる。

でも今考えてみると、全人類が日本語を覚える必要なんてなかった。

僕は日本語で話せばいい。

中国人は中国語で話せばいい。

アラブ人はアラビア語で話せばいい。

タイ人はタイ語で話せばいい。

イヤホンの中だけ、全員が日本語を話してくれればいい。

そして相手のイヤホンの中では、僕が完璧なアラビア語や中国語やタイ語を話している。

誰も自分の母語を捨てる必要がない。

世界を一つの言語に統一する必要もない。

みんなが違う言葉を話したまま、まるで同じ言葉を話しているように意思疎通できる。

考えてみれば、人類が求めていたのは「世界共通語」ではなく、こっちだったのかもしれない。

バベルの塔によって言葉が分かれたという物語から、何千年経ったのだろう。

人類は長い間、相手の言葉を必死に覚えることで、その壁を乗り越えてきた。

でもこれからは違うのかもしれない。

人類は一つの言語に戻る必要なんてなかった。

違う言葉を話したまま、同じ言葉を話しているのと同じ世界を作ればよかったのだ。

ガンダムの世界が実現すればいいのに。

僕は子供の頃から、ずっとそう思っていた。

でもどうやら――

その世界は、もう目と鼻の先まで来ている。

最初に書いたパンドラの話を、もう一度思い出す。

あらゆる災いが飛び出したあと、甕の底に最後まで残ったのは「希望」だった。

バベルで言葉を分けられてから何千年。人類が苦労してきた言葉の壁の底に残っていた希望は、僕にとっては、AIなのかもしれない。