3行でいうと

  • 少年期にゲイツと出会い、二人でマイクロソフトを立ち上げるまでを本人の視点で語る
  • 出資比率の取り決めや、病気のあとの関係の悪化が、物語の大きな主題になる
  • 退社後は、スポーツ、宇宙、音楽、人工知能、脳科学へと関心を広げた

向いている人

IT産業の黎明期を、共同創業者の視点から知りたい人。起業のパートナーシップや持ち分の決め方に関心がある人。

読む意味

ゲイツ中心に語られがちなマイクロソフトの物語を、別の当事者の側から見直せる。共同創業での役割と持ち分の合意、創業者同士の関係といった実務的な論点を考える材料になる。

読むときの注意

片方の当事者による回顧録である。ゲイツ本人が「記憶は異なる」と述べているとおり、出資比率や1982年の会話などは、当事者の主張として受け止めるのが妥当である。

どんな本か

この本は、マイクロソフトの共同創業者ポール・アレン(1953〜2018年)が、2011年に出した回顧録である。幼なじみのビル・ゲイツと二人で会社を立ち上げた経緯、1982年のホジキンリンパ腫の診断、ゲイツやスティーブ・バルマーとの関係の悪化、会社を離れたあとの投資家・慈善家としての活動、2009年の二度目のがんまでを、本人の視点で語っている。成功譚というより、「アイデアを出す側」の共同創業者が自分の貢献をどう見ていたかを描いた点に特色がある。

創業の発端として知られるのが、1975年に雑誌の表紙を飾った「アルテア8800」である。アレンが雑誌を見つけてゲイツに見せ、二人は実機もない段階でBASICインタープリタを開発中だと連絡して、実演の約束を取り付けた。社名の「Micro-Soft」もアレンの案とされる。

出資比率をめぐる葛藤も大きな主題である。報道によれば、ゲイツはまず6対4を提案し、のちに64対36を求め、アレンは納得できないまま受け入れた。診断から数か月後には、ゲイツとバルマーが自分の持ち分を薄める方法を話し合っているのを耳にしたという場面も、よく取り上げられる。後半は、スポーツチームの買収、宇宙事業、音楽、人工知能や脳の地図づくりと、好奇心の向かう先が広がっていく。

中身の柱

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概要

本書は、マイクロソフト共同創業者ポール・アレン(1953年1月21日シアトル生-2018年10月15日没、65歳)が、2011年に刊行した回顧録『Idea Man』の邦訳である。原書は米ペンギン・グループ傘下のポートフォリオ社から2011年4月に出た(発売日は、シアトル・タイムズが19日、VentureBeatが17日と、報道で食い違う)。日本語版は夏目大訳、講談社刊で、講談社の書誌では2013年2月19日発売、544ページ、紀伊國屋書店の書誌では531ページと表記される。幼なじみのビル・ゲイツと二人でマイクロソフトを立ち上げた経緯、1982年のホジキンリンパ腫の診断、ゲイツやスティーブ・バルマーとの関係の悪化、退社後の投資家・慈善家としての活動、2009年の二度目のがんまでを、本人の視点で語る。マイクロソフトの成功譚としてだけでなく、「アイデアを出す側」の共同創業者が自分の貢献をどう見ていたかを描いた点に特色がある。

本の構成

講談社の書誌によれば、全体は22章からなり、章題は「チャンス」「ルーツ」「レイクサイド」「熱狂」「ワシントン州立大学」「2+2=4!」「MITS」「パートナー」「ソフトカード」「プロジェクト・チェス」「軋轢」「モーニングコール」「訴訟」「ブレイザーマニア」「12番目の男」「宇宙」「ジミ・ヘンドリックス」「ワイヤード・ワールド」「ファットパイプ」「地球外生命体と人工知能」「脳の地図を作る」「冒険」と並ぶ。章題からは、少年期(「ルーツ」「レイクサイド」)から、MITS、ゲイツとの「パートナー」関係、そして「軋轢」へと進む流れがうかがえ、第14章以降は、ポートランド・トレイルブレイザーズ、シアトル・シーホークス、宇宙事業、音楽、人工知能や脳科学研究へと関心が広がる様子がうかがえる。紀伊國屋書店の紹介文も、スポーツ、宇宙開発、音楽、人工知能にまで話が及ぶと述べている。なお章の細かな内容までは書誌からは確認できないため、以下では報道や書評で裏づけられる点に絞る。

主要な内容

アレンは1965年から71年までレイクサイド校に通い、そこでゲイツと知り合ってプログラミングに熱中した(英語版Wikipediaによる)。ライフハッカー・ジャパンの書評(評者は印南敦史氏)によれば、アレンは初対面のゲイツを、非常に頭が切れて負けず嫌いで、自分の賢さを証明したくてたまらない少年と見抜いたという。同書評は、アレンがゲイツを「エッジウォーカー」と呼んだこと、チェスで負けたゲイツが駒を床にぶちまけたことなど、二人の気質の違いを示す場面も紹介している。

創業の発端は1975年1月号の『ポピュラー・エレクトロニクス』誌の表紙を飾った「アルテア8800」である。英語版Wikipediaによれば、アレンがこの雑誌を見つけてゲイツに見せ、二人はMITS社創業者エド・ロバーツに「BASICインタープリタを開発中」と連絡して3月に会う約束を取り付けた。実際にはまだ実機もインタープリタもなかったため、アレンが以前トラフォ・データ事業のために作った8008エミュレータを改造し、ハーバード大学のPDP-10上で開発した。アルバカーキへ向かう機内で、アレンがブートローダーを書き忘れていたことに気づき、着陸前に8080のマシン語で書き上げたという。この実演が成功してMITSが配布を認め、ゲイツはハーバードを離れてアルバカーキに合流した。マイクロソフトは1975年4月4日にアルバカーキで設立され、「Micro-Soft」という名前(microcomputerとsoftwareの合成)はアレンの案である。1979年1月1日にワシントン州ベルビューへ移転し、IBMとの契約は1981年8月12日に結ばれた(英語版Wikipedia「History of Microsoft」による)。

出資比率をめぐる葛藤は、本書の中心的な主題の一つである。シアトル・タイムズの紹介によれば、アルテアのプロジェクトで組むとき、ゲイツはまず6対4を提案し、のちに64対36を求め、アレンは納得できないまま受け入れた。VentureBeatも、1975年にゲイツが60%を求め、後年64対36にしたと伝える。したがって「当初は対等だった」とは言えない。

具体例

最も有名な場面が、1982年のホジキンリンパ腫の診断から数か月後に起きた出来事である。シアトル・タイムズによれば、アレンはゲイツとバルマーが「私の最近の仕事ぶりを嘆き、私のマイクロソフトの持ち分を薄める方法を話し合っている」のを耳にし、「信じられない。君たちの本性がこれで完全にわかった」と詰め寄った。VentureBeatによれば二人は後に謝罪したとされる。一方、英語版Wikipediaは、1983年にゲイツがアレンの持ち株を1株5ドルで買い取ろうとしたが、アレンは断ったと記す(同ページは出典を示すのみで、本書の記述との対応は未確認)。

ゲイツ側の反応も報じられている。シアトル・タイムズは、ゲイツがアレンに6ページの手書きの謝罪の手紙を送り、のちに「私の記憶はポールの記憶と異なる部分が多いが、彼の友情と、技術界とマイクロソフトに対する彼の重要な貢献を尊重している」という声明を出したと伝える。VentureBeatは、ウォール・ストリート・ジャーナルが本書の一部の出来事についてゲイツ側の支持者が異論を唱えたと報じたとしている。

退社後については、英語版Wikipediaによれば、アレンは1983年に日常業務から離れたが取締役会の副会長にとどまり、2000年11月に取締役を辞した。1988年にトレイルブレイザーズ、1997年にシーホークスを買収し、2003年にアレン脳科学研究所を設立した。2009年に診断された非ホジキンリンパ腫は最初の病とは別のがんで、NBCニュースによれば2010年には寛解が確認されている。

実践への応用

第一に、共同創業では持ち分と役割の評価を、事業が小さいうちに合意し、文書にしておくことの重要性である。アレンが書いた60対40から64対36への変遷は、立場が弱い側が「理屈が分からないまま受け入れる」と、後々の不信の種になることを示している。第二に、「アイデアを出す人」と「推進する人」は補い合う関係で、フォーチュン誌の取材でアレンは、一人が「それは解決できない」と言い、二人の役割が行き来したと語っている。互いの得意を認める仕組みが重要という教訓として読める。第三に、病気や休養で一時的に生産性が落ちた共同創業者に、会社がどう向き合うかという問題がある。第四に、技術の変化の兆しを素早くつかみ、実機がなくてもエミュレータで先に開発を進めるアルテアの逸話は、制約の中で仮説を検証する姿勢の実例でもある。

位置づけ・評価

英語版Wikipediaによれば、本書はニューヨーク・タイムズのベストセラーとなり、ガーディアンは「アレンの貢献はゲイツと同じく重要で、彼が作った道具がなければマイクロソフトのその後の成長は不可能だった」と評し、カーカス・レビューズは「驚くほど深く、率直」、USAトゥデイは「完全で率直」と評した。他方、ゲイツ本人が「記憶は異なる」と述べているとおり、片方の当事者による回顧録である点には留意が必要で、読むときには報道で指摘された争点(出資比率や1982年の会話)を、当事者の主張として受け止めるのが妥当である。IT産業黎明期を共同創業者の視点から知る資料として、またゲイツ中心に語られがちな物語を相対化する書として読まれている。