3行でいうと

  • 脳には睡眠の中枢と覚醒の中枢があり、シーソーのように切り替わる
  • オレキシンは覚醒を安定させる後押し役で、不足するとナルコレプシーが起こる
  • オレキシンの研究は、新しいタイプの不眠症治療薬の開発につながった
  • 睡眠不足は自覚のないまま積み重なる(睡眠負債)

向いている人

睡眠の仕組みを、脳の働きから理解したい人。神経科学の基礎をコラムが補うので、少し前提があるとよい程度です。

読む意味

眠気や覚醒の不安定さが気合の問題ではなく、特定の神経伝達物質に関わる生理現象だと分かります。睡眠障害への理解を深める助けになります。

読むときの注意

脳の老廃物除去の仕組みなどは今も議論の途上にあります。改訂版で触れられた内容は、確定した最新知識というより、当時の有力な仮説と成果として読むのが適切です。

どんな本か

「なぜ眠るのか」だけでなく「なぜ目覚めるのか」という、覚醒を保つ仕組みの側から睡眠を捉え直す本です。著者はオレキシンという覚醒を維持する脳内物質の発見に関わった神経科学者で、自身の研究成果を中心に、睡眠と覚醒が脳のどんな仕組みで切り替わるのかを一般向けに解説しています。改訂新版では、オレキシン研究を応用した新しい不眠症治療薬、脳の老廃物の除去と睡眠の関係、睡眠負債といった、初版のあとに進んだ知見が加えられています。

中心になるのは、睡眠を促す中枢と覚醒を維持する中枢が、シーソーのようにどちらかが優位になることで状態が切り替わる、というモデルです。覚醒を担うのはノルアドレナリンやセロトニンなどを使う神経系で、オレキシンはこのシーソーが不安定に揺れないよう、覚醒側を支える役目を果たすとされます。オレキシンが失われると、起きているのに突然眠りに落ちたり、笑いなど感情の高ぶりで急に力が抜けたりするナルコレプシーの症状が現れます。オレキシンを作れないよう遺伝子を操作したマウスや、患者の脳脊髄液、家族性のナルコレプシーをもつ犬の研究が根拠として挙げられます。

この知見は、受容体の働きをブロックして自然な眠気を強める、従来の睡眠薬とは仕組みの異なる不眠症治療薬の開発にもつながりました。また、深い睡眠中に脳内のアミロイドβなどの老廃物が洗い流されるという仕組みや、気づかないうちに睡眠不足が積み重なる睡眠負債についても論じられます。全体を通して、基礎の神経科学をコラムで補いながら進む構成です。

中身の柱

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概要

1964年5月17日東京都生まれ、筑波大学医学専門学群卒業、同大学院で1993年に医学博士号を取得し、テキサス大学サウスウェスタンメディカルセンターに移って1998年に柳沢正史教授との共同研究によって覚醒を維持する脳内物質「オレキシン」を発見し、現在は筑波大学医学医療系教授・国際統合睡眠医科学研究機構副機構長を務める神経科学者・櫻井武が、睡眠と覚醒がどのような脳のメカニズムによって切り替えられているのかを、自身の研究成果を中心に一般向けに解説した一冊。「なぜ眠るのか」だけでなく「なぜ目覚めるのか」という、覚醒状態の維持という観点からも睡眠を捉え直している。2017年8月17日刊行の改訂新版では、オレキシン研究を応用した新しいタイプの不眠症治療薬や、脳の老廃物除去と睡眠の関係、「睡眠負債」の概念など、初版刊行後に進展した知見も加筆されている。

本の構成

初版(講談社ブルーバックス、2010年11月19日刊)の目次は、第1章「なぜ眠るのか?」、第2章「最新技術で探る『睡眠の正体』」、第3章「睡眠と覚醒を切り替える脳のしくみ」、第4章「睡眠障害の研究から生まれた大発見」、第5章「オレキシンが明かした『覚醒』の意味」、第6章「ヒトはどこまで睡眠をあやつれるか」、第7章「睡眠に関する日常の疑問と、これからのテーマ」、終章「なぜ眠るのか――私の仮説」である(新書の書誌情報による)。つまり、シーソーモデルなどの切り替えの仕組みは第3章、オレキシンは第5章にあたり、まず「なぜ眠るのか」という根本の問いと最新の研究手法を置いてから、メカニズムと睡眠障害の発見史に進む順序になっている。

改訂新版(2017年8月17日刊、ブルーバックス通巻2026、定価1,100円)は、講談社の紹介によれば7つの章と15のコラムから成る。ページ数は紀伊國屋書店・講談社が264ページ、国立国会図書館サーチが「256+4ページ」と表記しており、数え方に違いがある。国立国会図書館サーチで確認できる目次の冒頭は、「はじめに」、第1章、COLUMN1「ニューロン(神経細胞)」、第2章、COLUMN2「活動電位(アクションポテンシャル)」と続き、神経科学の基礎を章の合間のコラムで補う作りになっている。

主要な内容(詳述)

  • 睡眠中枢と覚醒中枢のシーソーモデル: 脳内には睡眠を促す中枢と覚醒を維持する中枢が存在し、両者がシーソーのようにどちらか一方が優位に働くことで、睡眠と覚醒の状態が切り替わるという基本的なモデルを提示する。覚醒を担うのはノルアドレナリン・セロトニン・ヒスタミンなどを放出する「モノアミン作動性神経系」であり、これらの神経核が活発に働いている間は覚醒が維持され、逆に視床下部前部の睡眠中枢(腹外側視索前野=VLPOなど)が優位になると眠りに入るとされる。
  • オレキシンの発見: 1998年、著者を含む研究チームが、当初は食欲に関わる物質として発見した「オレキシン」という神経伝達物質が、実際には覚醒状態を安定的に維持するうえで中心的な役割を果たしていることを突き止めた経緯を紹介する。同じ物質は同時期に別の研究グループによっても独立に発見されており、視床下部で作られることから「ヒポクレチン」とも命名された(オレキシンとヒポクレチンは同一の物質を指す)という、発見の経緯そのものが科学史的にも興味深いエピソードとして語られる。オレキシンは覚醒を担う神経系(モノアミンシステム)の働きを支え、睡眠中枢の働きを抑えることで、シーソーが不安定に揺れ動かないよう安定させる「後押し役」を果たしているとされる。
  • ナルコレプシーとの関係: 日中に強い眠気に突然襲われる睡眠障害であるナルコレプシーが、オレキシンを産生する神経細胞が後天的に(多くは自己免疫的な機序で)破壊され、オレキシンが著しく不足・消失することによって引き起こされることを、動物実験とヒトの症例研究の両面から解説する。ナルコレプシーの症状の一つである、笑いや興奮などの感情の高まりをきっかけに突然全身の力が抜ける「情動脱力発作(カタプレキシー)」も、オレキシンを介した覚醒維持機構の破綻として説明される。
  • 睡眠と覚醒の切り替えの不安定さ: オレキシンが不足すると、シーソーモデルにおける覚醒維持の安定性が失われ、覚醒中に突然睡眠状態(あるいはレム睡眠に似た状態)へと切り替わってしまうことを説明する。この知見は、オレキシンの受容体の働きをブロックすることで自然な眠気を強める、従来の睡眠薬とは作用機序の異なる新しいタイプの不眠症治療薬(オレキシン受容体拮抗薬)の開発にもつながっており、日本でも実用化された薬剤について本書で言及されている。
  • 睡眠中の脳の老廃物除去と睡眠負債: 深い睡眠中に脳内で老廃物(アミロイドβなど、アルツハイマー病との関連が指摘される物質を含む)が洗い流されるように除去される仕組みがあることを紹介し、慢性的な睡眠不足の蓄積が知らず知らずのうちに心身に負荷をかけていく「睡眠負債」という概念についても、その正体と対処法にあわせて論じている。

オレキシン発見の経緯は、研究者本人の語りでも確認できる。テルモ生命科学振興財団の対談記事によれば、櫻井武は1996年にテキサス大学で、未知の受容体に対応する神経ペプチドを探す「逆薬理学」という手法を用い、オレキシンを精製した。精製物質が視床下部の摂食中枢に集中していたため、ギリシャ語で食欲を意味する「オレキシス」にちなんで命名された。睡眠との関係に気づいたのは帰国後で、オレキシンを欠いたマウスが毛づくろいの最中に突然倒れ、脳波を調べると覚醒状態からいきなりレム睡眠に入っていた。この現象がヒトのナルコレプシーに似ていたことが、オレキシンが覚醒と睡眠の制御を担うという理解につながったとされる。塩野賞(第2回)の紹介資料も、オレキシンの発見を1998年とし、orexin-ataxin3マウス(ナルコレプシーのモデル)やorexin-GFPマウスの作製を著者の主な業績として挙げている。

発見の位置づけについては、英語版Wikipediaの記述が補助線になる。1998年に二つの研究グループがほぼ同時に同じ物質に到達しており、櫻井らはテキサス大学サウスウェスタン医療センターの柳沢正史の研究室で食欲を促進するペプチドとして「オレキシン」と命名し、ルイス・デ・レセアとトーマス・キルダフらのスクリプス研究所のグループは視床下部で発現する遺伝子から「ヒポクレチン」と命名した。1999年にはドーベルマンのナルコレプシーがオレキシン受容体2の変異に由来することと、オレキシンを欠くマウスがナルコレプシー様の症状を示すことが報告された。2022年には柳沢正史とエマニュエル・ミニョーがこの発見でブレークスルー賞を受けている。

改訂新版で加筆された話題にも、外部の資料で裏づけられるものがある。脳の老廃物除去については、マイケン・ネーデルガードらが2012年に脳脊髄液が動脈周囲の空間から脳内に入り組織液と交換されることを示して「グリンパティック系」と名づけ、2013年のXieらの研究は、徐波睡眠中に脳の細胞外空間が約60%広がり、アミロイドβなどの排出が促されることを報告した。ただし、アルツハイマー病などへの関与の程度はまだ不明で、機構をめぐる議論も続いているとされる。新しい不眠症治療薬としては、オレキシン受容体拮抗薬のスボレキサント(ベルソムラ)が2014年8月13日に米国FDAで承認され、日本では同年11月に発売された。

具体例

オレキシンを作れないよう遺伝子操作されたマウスが、ナルコレプシーと同様の症状(突然の脱力や睡眠発作)を示したという研究や、ヒトのナルコレプシー患者の脳脊髄液中でオレキシンの濃度が著しく低下していたという臨床研究などが、具体的な根拠として紹介されている。またナルコレプシーの家族性が確認されていた犬(ドーベルマンなど)の研究から、オレキシン受容体をコードする遺伝子の変異がナルコレプシーの原因となりうることが突き止められた経緯も、オレキシン研究の発展を裏づける具体例として言及される。

実践への応用

本書は基礎科学的な内容が中心であるものの、日中の強い眠気や覚醒の不安定さが単なる「気合いの問題」ではなく、特定の神経伝達物質の働きに関わる生理学的な現象であることを理解することで、睡眠障害への偏見を減らし、適切な医療的対応につなげる視点を持つことができる。また、睡眠不足が自覚のないまま蓄積する「睡眠負債」という考え方を知ることで、日々の睡眠時間を軽視せず、慢性的な負債を溜め込まないよう意識するきっかけにもなる。

位置づけ・評価

覚醒維持の脳内メカニズムという、当時新しく解明されつつあった分野の第一人者自身が執筆した一般向け解説書として、睡眠科学の教科書的な一冊として位置づけられている。マシュー・ウォーカー『睡眠こそ最強の解決策である』やペネロペ・ルイス『眠っているとき、脳では凄いことが起きている』が睡眠の機能や記憶への影響を扱う一般啓蒙書であるのに対し、本書はオレキシンという単一の神経伝達物質の発見史とその作用機序に焦点を絞った、より専門色の強い神経科学の解説書という点で独自の位置を占めている。

著者の研究は国内外で評価されており、オレキシンの生理機能の解明に対して第2回塩野賞が贈られている。また、オレキシン研究の系譜は、本書の刊行後にあたる2022年のブレークスルー賞(柳沢正史、エマニュエル・ミニョー)にも連なっている。本書の初版が出た2010年から改訂新版の2017年までの約6年間に、洗浄機構や新しい睡眠薬といった知見が加わったことが、講談社の紹介でも改訂の理由として示されている。一方で、グリンパティック系の働きなどは、現在も議論の途上にある領域であり、改訂版で触れられた内容も最新の確定知識というより「当時の有力な仮説と成果」として読むのが適切である。