3行でいうと
- 睡眠は休息だけでなく、記憶を取捨選択し定着させる活動の時間
- 深い眠りでシナプスを全体に弱めつつ、大事な記憶は強める
- 著者らの仮説は、複数の記憶に共通するパターンから抽象的なルールが生まれる、というもの
- 感情を伴う記憶はレム睡眠で処理され、夢とも関わる可能性がある
向いている人
睡眠が記憶や学習にどう関わるかを、神経科学の言葉で知りたい人。専門用語に少し慣れていると読みやすくなります。
読む意味
睡眠を取ることが、記憶の定着や、難しい問題のひらめき、つらい出来事の処理とどう関わりうるのかを知るための、記憶研究の見取り図になります。
読むときの注意
著者自身の仮説(iOtA)が含まれるので、確立した定説とは分けて読むのが望ましいとされます。科学の訓練を受けた読者には細部が緩いという批評も紹介されています。
どんな本か
睡眠と記憶の関係を専門とする神経科学者が、眠っている間に脳の中で何が起きているかを、記憶の再生と定着というテーマを軸に解説した本です。睡眠を単なる休息ではなく、日中の経験を処理し直す「もう一つの活動時間」として描きます。既知の知見の紹介にとどまらず、著者の研究チームが提唱する独自の理論モデルも盛り込まれていて、夢、感情の処理、臨床への応用まで議論が広がります。
紹介される考え方の一つが、深いノンレム睡眠中に、日中に強まったシナプス(神経細胞のつなぎ目)の結合をいったん弱め、重要な記憶に関わるものだけを選んで強めるというシナプス恒常性モデルです。さらに、思い出された記憶は一時的に書き換え可能な状態になり、再び定着し直す「再固定化」も、睡眠中に起こるとされます。「全体を弱める」説と「特定の記憶を強める」説は一見矛盾しますが、著者らは複数のエピソードに共通するパターンが繰り返し活性化されることで、細部は失われつつ抽象的なルールが生まれるという統合モデル(iOtA)を提案します。
実験の例として、学習時に匂いや音を組み合わせ、深い眠りの間に同じ匂いや音を再び提示すると記憶の定着が高まる研究、テトリスを長く遊んだ人が眠りかけに落ちるブロックの映像を見る現象、睡眠をはさむと隠れた規則に気づく人が増える実験が紹介されます。恐怖などの感情を伴う記憶は、レム睡眠で扁桃体と海馬が連携して処理されるとされ、レム睡眠が恐怖を強めるという説と、落ち着いて再生することで和らげるという説が併記されています。
中身の柱
- 睡眠と脳・記憶の基礎(第1〜4章)
- 睡眠中の記憶の処理:シナプス恒常性、記憶の再生、iOtAモデル
- 夢と、ひと晩寝ると問題が解ける理由
- 感情記憶とレム睡眠、心の傷への影響
- 眠りのパターン、IQ、睡眠障害
- 記憶力を高め学習を促す方法と、睡眠のガイド
あわせて読む本
- 睡眠の科学眠りと覚醒の仕組みを、別の角度から学べる
- スタンフォード式最高の睡眠睡眠研究を実践に落とした本として比べられる
- 脳はこうして学ぶ学習が脳でどう起きるかを知る
書評データベースの全文を読む
概要
睡眠と記憶の関係を専門とする神経科学者である著者が、眠っている間に脳内で実際に何が起きているのかを、記憶の再生・定着というテーマを中心に解説した一冊。睡眠を単なる休息の時間ではなく、日中の経験を積極的に処理し直す「もう一つの覚醒した活動時間」として描いている。単に既知の知見を紹介するだけでなく、著者自身の研究チームが提唱するオリジナルの理論モデルも盛り込まれている点が特徴で、記憶研究の最前線をたどりながら、夢や感情処理、臨床応用にまで議論を広げている。
書誌を整理しておく。原書は2013年8月27日(米国の書誌)にパルグレイブ・マクミランから刊行され、パブリッシャーズ・ウィークリー誌の書誌では副題が「How the Nighttime Brain Creates Consciousness」と、本ノートの原題の副題(The Surprising Science of the Mind at Rest)とは異なっている。同じ出版社から、副題を「The Surprising Science of the Mind at Rest」とする版が2014年にも出ており(インターネット・アーカイブの書誌では200ページ)、版による副題の違いと見られる。パブリッシャーズ・ウィークリー誌の紹介によれば、著者はマンチェスター大学の「睡眠と記憶研究室」の所長で、睡眠を「刺激に対する反応が普段より弱いが、危険があれば覚醒できる、活動の少ない時間」と定義している。日本語版は、インターシフトから刊行されており、刊行月はHONZでは2015年11月20日、「文系の自然科学本の書棚」では2015年12月と、資料により食い違う。
本の構成
全13章構成。紀伊國屋書店・openBD掲載の目次によれば、章題は、第1章「なぜ眠るのか」、第2章「睡眠は脳にとってどれほど大切か」、第3章「脳と記憶の仕組み」、第4章「目覚めと眠りのコントロール」、第5章「眠りは心の大掃除」、第6章「記憶はどう再生され、固まっていくか」、第7章「なぜ夢を見るのか」、第8章「ひと晩寝ると問題が解けるわけ」、第9章「いつまでも忘れられない記憶」、第10章「睡眠は心の傷を癒す?」、第11章「眠りのパターン、IQ、睡眠障害」、第12章「記憶力を高め、学習を促進する方法」、第13章「快適睡眠を実現するガイド」である。第1〜4章は睡眠と脳・記憶の基礎、第5〜6章は睡眠中の記憶処理(シナプス恒常性モデルや記憶の再生など)、第7章は夢、第8章は問題解決、第9〜10章は感情記憶、第11〜13章は睡眠のパターンと障害、学習法、実践ガイドを扱うと、章題から読み取れる(以前の記述は、夢を第11〜13章の内容としていたが、書店の目次では夢は第7章であるため改めた。各章の内容そのものは書店の目次からは確認できない。著者の統合モデル「iOtA」を提示する章も、目次の章題からは特定できない)。
主要な内容(詳述)
- シナプス恒常性モデル: 深いノンレム睡眠(徐波睡眠)の間、日中の活動で全体的に強まったシナプスの結合が一旦弱められる一方で、特に重要だと判断された記憶に関連するシナプスは選択的に強化されるとする理論を紹介し、睡眠が単なる休息ではなく記憶の取捨選択を行う積極的なプロセスであることを説明する。
- 記憶の再固定化: 一度形成された記憶であっても、思い出された際には一時的に不安定な(書き換え可能な)状態になり、その後再び脳内に定着し直されるという「再固定化」のプロセスが存在し、これが睡眠中にも起きていることを示す。
- iOtA(情報オーバーラップによる抽象化)モデル: 「シナプスが全体的に弱まる」というダウンスケーリング説と「特定の記憶が選択的に強化される」という再生説は一見矛盾するようにみえるが、著者らは、睡眠中に複数のエピソード記憶に共通するパターン(情報の重なり)が繰り返し活性化されることで、個別の細かい情報は失われつつも、そこから抽象化されたルールや概念が新たに形成されるという統合モデルを提唱し、両者を矛盾なく説明しようと試みている。
- 標的記憶再活性化(TMR)の実験: 学習時に特定の匂いや音を同時に提示しておき、その後の徐波睡眠中に同じ匂いや音を再び提示すると、対応する記憶の定着率が有意に高まるという一連の実験(この手法の先駆けとなったのが、2007年にビョルン・ラッシュ、クリスティアン・ビューヒェル、シュテフェン・ガイス、ヤン・ボルンらが科学誌サイエンスに発表した、徐波睡眠中の匂い提示が宣言的記憶の定着を促すという研究である)を紹介し、睡眠中の脳が外部からの手がかりに反応して特定の記憶を選択的に再生していることの直接的な証拠として位置づける。
- 睡眠紡錘波(スピンドル)と知能: 徐波睡眠中に観察される短く速い脳波の一種である睡眠紡錘波の発生頻度が、記憶の定着効率や流動性知能(IQ)の指標と相関するという研究を紹介し、個人差のある睡眠の質と認知能力との関連を論じる。
- レム睡眠と感情記憶: 恐怖や不安といった感情を伴う記憶は、レム睡眠中に扁桃体と海馬が密接に連携することで処理・再生されるとし、レム睡眠中に特定の神経伝達物質(ノルアドレナリン)の濃度が下がることが、感情的な記憶を落ち着いた形で再処理することに関わっている可能性を論じる。感情記憶についてはレム睡眠が恐怖記憶をむしろ強化するという説と、感情反応を伴わずに記憶を再生することで恐怖を和らげる「オーバーナイト・セラピー」仮説という、対立する二つの見解が併せて紹介されている。
- 夢と臨床応用: 夢を見るという現象が、感情的な記憶の処理と関連している可能性を示し、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の治療法として知られる眼球運動による脱感作法(EMDR)と、睡眠中の記憶処理のメカニズムとの類似性についても言及する。
日本語の書評は、本書の骨格を次のように整理している。HONZの書評は、シナプス恒常性モデルを「徐波睡眠が神経細胞間の結合を弱めることで、不要な記憶を刈り込んでいく」考え方として紹介し、あわせて、記憶の再生を軸とする能動的システム固定化モデルと、著者の統合モデルであるiOtAを挙げ、ショウジョウバエの脳の刈り込みの実験や、睡眠紡錘波の密度と知能の相関にも触れている。「文系の自然科学本の書棚」は、第1〜4章を睡眠と記憶の基礎、第5・6・8章をシナプス恒常性、記憶の再生、iOtAの議論、第9・10章を感情記憶、第11〜13章を睡眠パターンと知能、学習の最適化、睡眠衛生の助言として整理し、第8章のiOtAの議論を最大の山場と評価している。感情記憶の章では、扁桃体と海馬の働き、記憶の再固定化、ノルアドレナリンの役割、「一晩のセラピー」仮説、PTSDに対するEMDRとの関係が扱われると整理される。
具体例
学習した内容について、睡眠を取ったグループの方が起きていたグループよりも記憶の定着が良かったという実験結果や、感情的に強い体験の記憶がレム睡眠を経ることで、当初ほどの強い苦痛を伴わずに想起できるようになる現象などが、具体例として紹介されている。加えて、テトリスを長時間プレイした被験者が、その後の入眠時に落下するブロックのイメージを繰り返し夢に見たという実験(健忘症患者であってもゲームの記憶自体は持たないままイメージだけを夢に見た例が報告されている)や、隠れた規則性に気づく人の割合が、睡眠を挟んだグループでは覚醒したままのグループの2倍以上に高まったという実験結果(ヴァーグナーらが2004年に『ネイチャー』に発表した数字変換課題の研究で、規則を発見した割合は睡眠群が59.1%、覚醒群が合わせて22.7%だった)も、睡眠が創造的な洞察やひらめきを促す可能性を示す例として紹介されている。また、就寝前に特定の匂いを嗅ぎながら学習し、深い睡眠中に同じ匂いを再び提示すると、その匂いと結びついた記憶の想起成績が向上したという標的記憶再活性化の実験も具体例として挙げられている。
実践への応用
新しいことを学んだ後は、十分な睡眠(特に深いノンレム睡眠とレム睡眠の両方)を確保することで記憶の定着を助けること、感情的につらい出来事があった際にも、十分な睡眠を取ることがその記憶の処理を助ける可能性があると理解することなどが、実践への応用として挙げられる。加えて、難しい問題に行き詰まったときには一度眠りを挟むことでひらめきや洞察を得やすくなる可能性があること、学習内容に結びつけた特定の匂いや音を用いて記憶の再活性化を意図的に狙うといった工夫も、応用のヒントとして示唆されている。
位置づけ・評価
睡眠と記憶の関係を専門とする研究者による一般向け科学書として、睡眠科学の中でも特に記憶処理のメカニズムに焦点を当てた著作として位置づけられている。日本語版の正式タイトルは『眠っているとき、脳では凄いことが起きている』(西田美緒子訳、インターシフト、2015年12月刊)であり、本ノートのタイトルは訳題の表記ゆれだが、同一の著作・著者を指す。マシュー・ウォーカー『睡眠こそ最強の解決策である』が睡眠全般の健康影響を幅広く扱う一般啓蒙書であるのに対し、本書は記憶研究者ならではの専門性を活かし、記憶固定化のメカニズムそのものを掘り下げている点で対照的な位置づけにある。
書評の受け止めは、立場により分かれる。HONZの書評者は、本書を、「快眠」の指南から脳の機能を最適化する「活眠」へと関心を移す入門書として紹介し、「文系の自然科学本の書棚」は、神経科学の用語で記憶との関係を丁寧に説明した真面目な解説書と評した(いずれも書評者の見方である)。一方、英語圏のブログ書評(zenmischief、5点満点の3点)は、各章末に要約が付く点を評価しつつ、科学の訓練を受けた読者にとっては細部が緩く記憶に残る洞察が少ないこと、余白の多い体裁や漫画風のイラストがかえって分かりにくいことを欠点に挙げた。同じブログは、著者が「どうしてそうなるのか分かっていない」と素直に述べる点を、誠実な姿勢として認めている。本書を読む際は、記憶研究の最前線の見取り図として、また、著者自身の仮説(iOtA)が含まれる点を踏まえて、確立した定説と区別して読むのが望ましい。